無芸大食・読書亡羊~美味しいものと本と旅~

美味しいものと本と旅が至福であり、生きがい。インスタ映えや星の数じゃなく、自分がいいと思えたものとの出会いを綴ってゆきたいです

羊と鋼の森(宮下奈都)~読後所感~

※あくまでも個人的な感想です。一部作品のあらすじやテーマに触れている箇所があります。
まだこの本を読まれていない方は、以下記述に目を通される際にはどうぞご留意ください。

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これまでに読んだ宮下奈都さんの作品「太陽のパスタ、豆のスープ」「ふたつのしるし」「スコーレNo.4」は今一つしっくりこなかったのですが、本作羊と鋼の森は、それこそ静かな森の中で読んでいるような、静謐な美しさに浸れる、非常に心地良い作品世界でした。
 
北海道の寒村出身の主人公外村は、彼の通っている高校にやってきたピアノ調律師・板鳥と劇的な出会いを体験し、調律師の道を目指します。養成学校で調律の技術を学び、板鳥と同じ勤務先となる楽器店に入社を果たしたものの、彼自身が目指す音の波をつかまえられず苦心します。カリスマ調律師の板鳥や、明るく優しい先輩調律師・柳、外村に手厳しい元ピアニストの調律師・秋山などから様々な助言を与えられつつも、客が求める音と外村が追い求める音、ピアノが本来出し得る音とそれを弾く者が出す音など、様々なギャップに戸惑い、力不足を嘆き、試行錯誤する日々。そんな中、顧客の一人が奏でる音に胸打たれ、外村はようやく自分が目指したい音が見えてくるのでした。

ピアノ調律の音色を含む「美しさ」という捉えどころのない概念が、様々な美しい言葉で綴られた本でした。外村は、板鳥の調律音に出会って初めて「美しいもの」に気付くのですが、それは彼が「美しさ」を知らなかったのではなく、「僕はたくさん知っていた。ただ、知っていることに気がつかずにいたのだ」と独白しています。私たちの周りには、醜いものだけでなく美しいものだって、数多存在しているのですが、気がつかなければ目の前を素通りしていくだけ。大切なのは、それを感じ取る目や耳や心であること、そしてそれは誰にでも備わっているものだということに、改めて感じ入りました。

外村は、美しさを享受する姿勢についても語っています。私自身、泣きたくなるほど美しい風景や音楽、絵画に出会うたび「美しいものを前にしても、立ち尽くすことしかできない」ことの歯痒さを感じてきましたが、次の一文に心打たれました。
「そのままに留めておくことは出来ないし、自分がそこに加わることもできない。だけど、あれを、美しいと呼ぶことを知った。それだけで解放されたような気持ちだ。美しいと言葉に置き換えることで、いつでも取り出すことが出来る世になる。人に示したり交換したりすることもできるようになる。美しい箱はいつも身体の中にあり、僕はただその蓋を開ければいい。」美しさにただ身を委ねることをせず、貪欲に貪ろうとしていた自分に、恥ずかしさを覚えた一文でした。

美しさの享受というキーワードで、ショーシャンクの空にで、主人公のアンディが、刑務所内で「フィガロの結婚」を流すシーンを思い出しました。美しいものに触れたときの、解き放たれたような気持ち、どこまでも飛んでゆけそうな自由な気持ちを、このシーンが体現しているように、私は感じるのです。
 

本書は、一人の青年がピアノ調律師として成長してゆく姿を描いたものですが、ひとつの道を究めようとする純粋な情熱、謙虚な姿勢やひたむきさには、心が洗われるような清々しさを覚えます。三浦しをんさん「仏果を得ず」舟を編むなどもそうですが、一つのことに向き合い、鍛錬し、試行錯誤を重ね、こつこつと積み上げてゆく尊い姿もまた、美しさのひとつであると思います。


舟を編む
三浦 しをん
光文社
2011-09-17