無芸大食・読書亡羊~美味しいものと本と旅~

美味しいものと本と旅が至福であり、生きがい。インスタ映えや星の数じゃなく、自分がいいと思えたものとの出会いを綴ってゆきたいです

ナイルパーチの女子会(柚木麻子)~読後所感~

※あくまでも個人的な感想です。一部作品のあらすじやテーマに触れている箇所があります。
これからこの本を読まれる予定の方は、以下記述に目を通される際にはどうぞご留意下さい。

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ブログ投稿者と愛読者という立場で知り合った、バッググラウンドも生き方も違う翔子と栄利子という2名の女性が、知り合って早々その関係に躓いたことをきっかけに、自身の生き方と他者との関係性をと問いかける小説です。

知り合うきっかけがブログであり、「恋人がいないこと」が問題なのではなく「同性の友達がいない」ことが問題だと感じている設定は今の時代を反映しているものだと思いますが、人と人との関係性において私たちの根底に巣食う感情や価値観は何年も進化しておらず、ずっと同じようにもがいていたのかもしれない・・・というのが私の最初の所感です。

この本に登場する栄利子はランチを共に、あるいは女子会を開くような同性の友人がいないことをコンプレックスと感じ、同性の親友を得られれば自分の価値が完全なものとなると思い込んでいます。彼女にとって「私」という存在を確固たるものとし、周囲から見た時のそれに彩りを与えるものの1つとして重要視されるのが、ひと昔前だったらきっと「異性の交際相手(モテ)」となるところでしょうが、「同性の親友」という設定が、とても今の時代らしいと思います。

栄利子が友達を欲するその根底には、美しい装いや隙のない身だしなみ、大手の一流商社での仕事など、「彼女が理想とする彼女」であらんとするために欠落している部分を埋めるためであり、友達という対象を得ることで自分の存在価値が確固たるものとなる、という思い込みがあります。

彼女が目指す「完璧」は、他者に映る自身のイメージももちろん含まれますし、「自分が認める自分」になることでもあるのですが、結局のところ、欠落している部分を埋める対象が、ブランドバッグであったり、恋人や友達であったりその時代の風潮によって違うだけで、栄利子に限らず、私たちはもうずっとこれまでも「埋めなくてはならない部分」をなんとかしなくては、ともがいてきたように思います。

この「埋めなくてはならない部分」とはなんなのでしょう?いみじくも栄利子自身が、「私たちを競争させるものと闘う」と、そのことについて糾弾するくだりがあるのですが、私たちの周りには「私たちを競争させるもの」がなんと多いことか。

未婚・既婚、子供の有無、学歴や出世、持ち家の有無など、私たちは私たち自身で生み出した価値観に自分をカテゴライズして、結局ステレオタイプなものとして定着したそれらに、知らず知らずのうちに縛られてしまうように感じます。私たちは自分がそうと気づかなくても、職場でのやりとり、メディアで目にした場面など、日常の何気ないところで少しずつ刷り込まれ、独り歩きしている言葉たち(たとえば「アラサー」「リア充」「草食」「おひとりさま」とか?)と自分自身を比べ、「そのカテゴリーに入るために足りない部分がある自分」あるいは「自分が望んでいないカテゴリーに属している自分」に気づかされてしまいます。

それを軌道修正するために「埋めなくてはならない」 をどうにかしなくてはと、つい思ってしまう。 栄利子の思い込みは少々過剰ですが、でもそんな風に思う瞬間は私の中にも、あります。こうやって生きていきたいと思って、ちゃんと自分で決めて生きてきたはずなのに、例えばテレビで世の中の人々を見て「あぁ、自分はリア充とは程遠いなぁ」とか「この年だともうちょっとちゃんとした生活しないとまずいのかもね」とか、「何かの基準値に足りてない」自分になんとな~く気がついてしまい、なんとな~くバツが悪い思いをしてしまう。 

同時に、いまどき性別や年齢で「●●らしく」なんてくくるのはナンセンスと言いながらも、未だに女性たちは男性たちに、男性たちは女性たちに、あるいはその時々で双方の一部が入れ替わりしながら、私たち自身も気がつかないうちに、他者をカテゴライズしてしまっているようにも思います。

もう一つのテーマとなる他者と関係を結ぶ難しさや危うさについては、個人的にとても感じ入るところがありました。主人公の二人の関係にひずみがでるのは、同性の友人がいない栄利子が、ブログを通して知り合った翔子と波長が合い、彼女の欠落部分であった「友達」を得たことによって自信を得ると同時に、それを不動のものとせんがために「友達」の翔子を自分の理想の関係性に縛りつけようとすることが発端となります。

友情や恋愛において、あるいはそこまで濃厚な関係性でなくとも「誰かと関わることで自分の輪郭を確かめたい」「自分の立ち位置を確認したい」と感じる気持ちはごくごく自然なものだと思いますし、心通いあう誰かがいることで自分の存在意義を確認したり、自分に自信がつく経験は誰しもある当たり前のことでしょう。しかし、その先で間違えてはならないのは、分かりあえたその素晴らしい瞬間は、永遠のものではないということ。
 
私たちはその尊い瞬間に、心やすらぐ関係を築ける喜びに、ついうっかりラベルを付けてそのまま固定してしまい、人との関係性を絶対的なものだと勘違いしてしまいがちです。「友達だから」「夫婦だから」「親だから」「家族だから」、そんな言葉を便利に使って、相手の気持ちに土足で踏み込んでみたり、何も言わなくても大丈夫だなんてその人との関係性にもたれかかって甘えてしまうのです。

男女限らず全て完全に分かりあえることなどなく、そんな脆い人間関係だからこそ、わかりあえた一瞬が奇跡のように尊いことなのだし、切れない絆や壊れない友情、永遠の愛なんてものは、初めからそこに存在するのではなく、互いに日々真摯に紡いで繋げていく姿勢があってこそのもの。だからこそ、分かりあうための努力を、コミュニケーションを放棄してはいけないのだ。この本は、そのことを改めて私に気がつかせてくれました。

「女同士ってめんどくさい。苦手」という言葉から、互いに相通ずるものを感じて仲良くなった翔子と栄利子ですが、紆余曲折を経ながら各々が自身とその周りに向き合わざるを得ない状況になっていきます。ラストに辿り着くまでのストーリーが面白く、ドキドキしながら頁をめくりました。タイトルに「女子会」とあり女性2人が主人公の話ではありますが、「夫婦」「家族」「職場の同僚」と色々な形での人と人との関わり合いが描かれているので、誰しもが考えさせられ、ドキッとさせられる部分がある内容ではないかと思いました。