無芸大食・読書亡羊~美味しいものと本と旅~

美味しいものと本と旅が至福であり、生きがい。インスタ映えや星の数じゃなく、自分がいいと思えたものとの出会いを綴ってゆきたいです

先生のお庭番(朝井まかて)~読後所感~

※あくまでも個人的な感想です。一部作品のあらすじやテーマに触れている箇所がありますので、
これから この本を読まれる予定の方は、以下記述に目を通される際にはどうぞご留意ください。

======================================================================
朝井まかてさんの「先生のお庭番」読了。
長崎の植木商で修業中の主人公熊吉が、出島に薬草園を造りたいというシーボルトの命により
オランダ商館に奉公に出向き、他国の自然や文化の違いを体感し、異人である「しぼると先生」
との絆を深めお庭番として成長していくのですが、史実の通り禁制品である日本地図を国外に
持ち出そうとしたいわゆるシーボルト事件に巻き込まれてしまい・・・というストーリーです。

15歳と若くして奉公にやってきた熊吉にとって、オランダ商館医であり植物学者でもあるシーボルトは、
当時の門下生たちに西洋医学の最先端を惜しみなく伝授すると共に、四季折々の色彩豊かな
日本の自然の素晴らしさを力説する、自然を愛し学問を尊ぶ高尚な人物として映ります。
前半は衣食住始め日本とオランダとの様々な文化の違いを肌で感じながら柔軟に馴染んでいく
熊吉や、西洋医学をぐんぐん吸収していこうとする数多くの門下生たちなどが生き生きと描かれて
いるのですが、読者である私も熊吉の目線で、新しいものとの出会いや貪欲に知識を取り入れて
いこうとする当時の日本人の姿に興奮します。
 
シーボルトは、専属のお庭番となった熊吉に、ヨーロッパの自然に比べて、日本人が当たり前と
思っている日本の自然や四季がもたらす恵みがどれほど豊かなものなのかを説きます。
彼はまた、彼が知るこれまでの奴隷たちが命令をしないと動かないのに比べ、日本人は指示がなくとも
自分の頭で考えて動くこと、荷物ひとつ運ぶにも不正や横着をしないという実直な気質に驚嘆します。
修業中でまだ作庭したこともなかった熊吉が工夫を凝らして見事な薬草園をこしらえたり、自国に
日本の草木を運びたいというシーボルトのために知恵を絞り、職人の見事な技術を駆使して運搬の
手段を生み出す場面は、胸がすくような思いで読みました。
異国人であるシーボルトから見た日本、熊吉の目を通して気づく日本。
今でも誇るべき日本という国や日本人の美点に私も気がつかされます。

物語の後半は、シーボルト事件を発端に熊吉はじめシーボルトの妻や門下生たちが混乱に巻き込まれ、
その結末については歴史として記されている史実に沿うものですが、熊吉や妻のお滝が、信頼し心を
通わせていると思っていたシーボルトの知らなかった一面に愕然とするある描写がとても印象的でした。
自然に感謝し寄り添い、虫の声を愛でて風情を感じる自分たちと、人間の知力で自然をねじ伏せ
思いのままにしようとするシーボルトとの、決定的な違いをつきつけられるのです。
彼らにとって、後から知る事実(禁制品の国外持ち出しなど行為や、実はオランダ人ではなくドイツ人と
偽っていたこと)よりも、自然に対する感じ方の悲しいほどの隔たりをシーボルトに感じてしまうことの方が
衝撃だったのです。

熊吉やお滝に対して裏切りともいえる行為を働くシーボルトですが、一方で彼がのちにアジサイの新種に
「オタクサ(お滝さん)」と名付けたことや、シーボルトの企みを知った熊吉が彼なりの決断を下す場面に、
彼らが感じたであろう複雑な心情にしみじみと思いを馳せてしまうのは、朝井まかてさんの描きだした
この物語の世界にどっぷり入り込んでしまったからに他なりません。
歴史上に記されるシーボルトやお滝は単に記録された人物ではなく、ここでは長崎の方言や「異人さん」
独特の言い回しで会話し、苦悩し歓喜する、私たちと同じ血の通った人間だったのだと感じ入ります。
時代小説を読む醍醐味は、正にこういったところにあるのではないかと思っています。
 
史実はきな臭く少し物悲しくも、この物語の最後の場面はほろりとさせられ深い余韻を残します。
それも朝井まかてさんの作品らしいしみじみとした締めくくり方だと思いました。