無芸大食・読書亡羊~美味しいものと本と旅~

美味しいものと本と旅が至福であり、生きがい。インスタ映えや星の数じゃなく、自分がいいと思えたものとの出会いを綴ってゆきたいです

「女子をこじらせて(雨宮まみ)」と「喪失記(姫野カオルコ)」~読後所感~

※あくまでも個人的な感想です。一部作品のあらすじやテーマに触れている箇所がありますので、
まだこれらの本を読まれていない方は、以下記述に目を通される際にはどうぞご留意ください。



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奇しくも、女性性による生きづらさに苦しむ女性を描いた本を、続けて手に取りました。
 
姫野カオルコさんは1958年生まれで、「喪失記」は1994年(私が読んだ文庫版は1997年)に刊行。
「女子をこじらせて」の筆者、雨宮まみさんは1976年生まれで、2011年(文庫版は2015年)刊行。
筆者の世代や発行年度は違えど、約15年の時を隔てても、描かれる息苦しさは驚くほど似ています。
LGBT」という言葉も使われ始めた現代ですが、性別によるコンプレックスや、社会と関わっていく上で
性別がもたらす鬱陶しさなど、まだまだ深い葛藤があると、この2冊は気がつかせてくれました。

「女子をこじらせて」は、容姿判定によるスクールカースト制最下層という引け目から、「喪失記」は、
厳格なカトリック神父のもとで育った生い立ちゆえに、とそれぞれの理由は異なりますが、幼いころから
「女性としての資格がない」と自分を戒め、猛烈な自意識にがんじがらめにされている女性が主人公。
一方で彼女たちは、人に慈しまれ優しく庇護されたいと思う気持ちや、性に対する欲望と折り合いを
つけることが出来ず、自らの女性性に戸惑い、葛藤する様が描かれています。
女性であることを強く意識すればするほど、自分の容姿や個性が「女性らしさ」からかけ離れていると
卑下し、そんな自分が「女性らしさ」に憧れ、自分を着飾ったり恋愛をするなど笑止千万、と自分を更に
律してしまうのです。

「性」による区別は、自発的に認識するというよりも、社会の暗黙のルールによって、幼少期から徐々に
意識せざるを得ないような仕組みになっているように思います。
それは例えば、身につけるものの色、玩具の種類、髪の毛の長さなど、親や周囲の大人による悪意の
ない導きから始まり、学齢期に達すれば多数の自意識過剰な同世代による厳しいジャッジによって、
否が応にも自分の「男性性」「女性性」と直面せざるを得ません。
 
他人と比べるな、自分の価値観を持てと言われようとも、若いうちは相対的に物事を見なければ、自分の
価値観を構築することすら出来ません。様々なものへの憧れは溢れ、自分を省みて落ち込み、誰かと
比べて嫉妬し、不特定多数に対する自己承認欲求は止まらず、迷走する日々。
「女子をこじらせて」の筆者の雨宮まみさんは、そんなもてあまし気味の学生時代を赤裸々に綴り、
自分の「黒歴史」と語っていますが、きっと多くの女性が、そして男性も「一緒!」と諸手を挙げる場面が
多いのではないかと思います。

更に問題をこじらせるのは、思春期に気がつく自分の身体の変化。
「女子をこじらせて」では、「女子力検定不合格どころか受験する資格すら剥奪されているような状態」の
自分を娘(女性)として扱う父親に無性に腹が立ったり、自分のことを「欲情される資格なし」と思い込んで
いるにも関わらず、湧き上がる「エロ」欲を抑えることが出来ません。
「喪失記」の主人公・理津子は、親にブラジャーが欲しいとどうしても言えず、身体の線を隠すぶかぶかの
トレーナーを身につけます。女性性を自分が所有することは罪悪であると考える彼女にとって
「メスとしてオスをなびかせる能力がなければ、その存在は牡でも牝でもない」ので、自分のことを性を
持たない「社会である」べきだと、男性に寄り添いたいと思う気持ちを必死に押し留めます。

社会に出てからも、それらは彼女たちを楽にするどころか、更に追い詰めます。
「女子をこじらせて」では、AVライターという女性の生業としては珍しかった職業柄もあり、彼女一個人の
能力や功績を評価される以前に、「女のくせに」「女だから」というバイアスがかかることに激しく動揺。
女であることから一番遠い位置に自分を置いて分をわきまえていたはずなのに、男性社会の中にいる
自身の性別が「女」であるだけで、そのことを理由に落ち度を探されたり過剰に持ち上げられたり。
そんな偏見や差別を口にする「男性」に憤り嘆き憎む一方で、付き合い性交する対象となるのも「男性」で
あることで、自分への矛盾すら生まれます。行間からほとばしるかの如く、当時の心情が幾頁にも渡って
綴られており、筆者の葛藤の深さと積年の苦しみを突き付けられているかのようです。

「喪失記」でも、自分への戒めを解かない理津子は、人とかかわる都度に戸惑いを覚えてばかりいます。
女性性であることを誰かに許され、自身の存在が女性であることを認められたいと、心底で願う気持ちと
それを律する気持ちがせめぎ合い、他人から理解されない行動につながってしまうからです。
淡々と綴られる諦めのような文章の余白から、理津子の切実な叫びが滲み出るようです。

私は、彼女たちを滑稽と嗤うことは出来ませんでした。
昔ほどは「男性らしく」「女性らしく」が強調されないとは言っても、人生のあらゆる場面で性別を意識せず
生きることはとても難しいと感じます。
自分の意図しないところで女性を持ちだしてきて、時には揶揄され、時には持ち上げられ・・・。
悪意なく無意識に発される言葉は無限に広がり、いちいち取り合うのも馬鹿馬鹿しく、自虐的な発言で
さらっと受け流すも、ざらりとした感触が後に残ります。看過してしまうには、ちくちくと胸の奥に巣食った
「気持ち悪さ」は大き過ぎるのです。

2つの作品では、それぞれある出会いによって、女性性をこじらせて「喪失したもの」からの脱却への
道しるべを見出します。
誰かのぬくもりを求めること、誰かと愛を確かめ合うことは、性別とそれに伴う特性とは全く関係なく、
その気持ちを持つことに「資格」はいらない。なのに、他でもない自分自身が、自らの女性性に翻弄され、
歪め、レッテルを貼ってきたのだと気がつくのです。
 
ここに至るまでの長い葛藤や、最後に辿り着く気づきは、女性はもちろん男性であっても、そして性別
のみならず、「容姿」「学歴」「年齢」「年収」「結婚」「子供」など、私たちの前に立ちはだかる透明な壁に
振り回されて疲弊している人にとって、感じ入るところが多いのではないかと思いました。

「女子をこじらせて」では、最後のあとがきのスコーンと爽快な語り口にとても救われます。
「言い訳しても、コンプレックスであっても、人生ってありものでなんとかやっていくしかない」、その通り。
自分の人生における「やれないこと」や「やらないこと」の理由を作るために、自分自身が透明な壁を
作ってしまってはいけないのだ、と強く思いました。