無芸大食・読書亡羊~美味しいものと本と旅~

美味しいものと本と旅が至福であり、生きがい。インスタ映えや星の数じゃなく、自分がいいと思えたものとの出会いを綴ってゆきたいです

院内カフェ(中島たい子)~読後所感~

※あくまでも個人的な感想です。一部作品のあらすじやテーマに触れている箇所があります。
まだこの本を読まれていない方は、以下記述に目を通される際にはどうぞご留意ください。

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院内カフェ
中島たい子
2015-07-07


祖母が亡くなるまでの4~5年ほど介護を手伝った経緯と、ふた親がそれぞれに持病を持っている環境で、同世代と比べて早いうちから病院通いをしてきました。身内の通院・入院に付き添った経験がある方には何となく理解して頂けそうですが、病院という空間のあの空気感は、非常に独特なものがあります。ことに大きな病院施設の、診療時間も面会時間も過ぎた後の静けさは途方に暮れるほどで、たくさんの人がいるはず大きな建物のはずなのに、そこを支配するこわいくらいの静寂に包まれた時の、あの寄る辺ない気持ちを私は他に知りません。

「院内カフェ」は、そんな病院に併設されているカフェを舞台に、そこに集う人々の人間模様を描いた作品です。他人の介護に疲れ切った妻や、病気と向き合えない夫、病院内のカフェのコーヒーは体に良いと信じる男性など、ちょっとした事情を抱えたカフェの客たちと、その店のアルバイト店員として週末だけ働く作家の主人公の、縁のある人しか利用しない「院内カフェ」という独特の空間で交差する様々な思いが描かれています。クスッと笑えるおかしみのある場面もあり、優しく軽やかな文体なので、読後感は決して重たくなく、むしろとても清々しい気持ちにさせられるものでした。

大手チェーンのコンビニやカフェが病院内に併設されるようになったのはここ5~10年のことで、それまでの病院のことは、徹頭徹尾、傷病という「非日常」が支配している場所だと感じていました。膨大な待ち時間を要する検査にくたびれ、診断結果を案じて不安に苛まれ、弱り切った身内の姿に心乱され、介護の苦労を分かち合えない孤独感に落ち込み、患者以上に見舞う身内の方が疲れきってしまうような閉塞感は、たとえ医師や看護師の方がどんなに温かく優しい人柄であっても、払拭されることはありませんでした。

けれど、煌々と明かりが灯るカフェやコンビニが院内に現れるようになってからは、その「どこにでもある風景」のとてつもない日常感にどんなに癒されたことでしょう。それらの多くは営業時間も長く、病院の空気などものともせずに「日常」の延長上としてあっけらかんと存在しており、そんな拍子抜けしてしまうほどの健やかさに救われ、私は気力を取り戻して「日常」に戻っていくことが出来たのでした。
 
「院内カフェ」においても、主人公が働くカフェと病棟の間に横たわるものは単にフロアの区切りというだけですが、「単なる境界線」にすぎないことが、「病院に通う生活」と「そうでない生活」にそれほどの隔たりはないのだということを象徴的に表しているように思いました。病院に通う生活は「非日常」かもしれませんが、それは二度と抜けられない絶望的な迷宮なんかではなく、気持ちの持ちようによっていつでも「日常」に戻れるところにあるものなのだと思います。

あれから幾年月が経ち、私にとって病院は「日常」と化しました。病気になるのは嬉しいことではないけれど、身体の不調はその人自体の欠陥でも何でもありません。永いヒトの歴史の中で、環境の変化に対応すべく人間は何度も身体システムを微調整してきたわけで、たまたま今は上手く作動していないだけかもしれません。ただただ怯え惑うのではなく、不調も含めて身体と寄り添って生きていくことが、今は私と、私の家族の「日常」です。

妊娠がうまくいかない主人公が、カフェの同僚や夫と語らう中で導き出す、人間の体のシステムについての叙述は、私のそんな今の思いに手を添えてくれるような、じんわりと温かいものでした。病気の当人とそのご家族、あるいは病院に行くほどではないけれど身体に違和感を覚える人たちの不安を拭い、優しく包み込んでくれるような作品でした。